「文金高島田(ぶんきんたかしまだ)」の始まり
島田髷の根を高くして優美に見せたものを文金というのは、元は男の髷で根を高くして、そのうえでハケ先を曲げたものである。これは江戸時代の享保年間に宮古路豊後橡和中(元文5年9月1日情死、歳38)が結い始めたのが一般に行われ、ついに女性の髪形にまで及んだものである。
文金という言葉の始まりは、元禄年間に質の悪い大判や小判が造られたが、これを流通させておくのは良くないため、八代将軍吉宗が元文元年(1736)5月12日にこれを回収させ、質の良い小判と一分金を発行したので、世間の人々が大いに歓んで「文字金=文金」と呼んだことに始まったのである。