「長脇差(ながわきざし)」の始まり
江戸時代中期頃の脇差は、一尺(約30.3㎝)以下が小脇差、一尺七寸(約51.5㎝)までが中脇差、一尺九寸(約57.6㎝)までが大脇差、二尺(約60.6㎝)になると刀といった。特に長脇差という寸法はないが、大体において大脇差以上のものを呼んだと思われる。
この長脇差というのは、戦国期に上野国の榛名山中腹にあった箕輪城の城主長野業盛の家来達が好んで長柄の刀を差し始めたことから起こった名称である。
文政12年(1817)に勘定奉行が関八州の大名・旗本に取締りを命じた中に、「近ごろ、無宿どもが長脇差を帯び、また槍・鉄砲などを持ち歩き、在所において狼藉(ろうぜき)におよんだときは、小村、小人数では取押えがたいため、みずからゆるみになるゆえ、悪党どもは増長してしばしば狼藉に及ぶのである」とあり、無宿者が長脇差で狼藉に及んだことが判る。