「鳥追(とりおい)」の始まり
もとは作物を保護するために鳥追いをする下賤の者が、正月に公家殿上人などの貴紳の門前で、その年の稼穡(かしょく:農作物)が豊熟であることを祝福したことから始まったという。『本朝世事談綺』によれば「踏歌(あられはしり)の遺風なり、相伝ふ延文のころ(1357~1361)、三河國に長者あり、数千町の田圃(たんぼ)をもち、土民にして土民ならず、武士にあって武士にあらず、さりながらつねに貴人高位にまじり、三槐九棘(さんかいきゅうそく)にちなみあって、富んで貴き人なり、代々時宗をとうとみ、遊行上人を仰ぐ、ひととせ正月、遊行上人この第宅にやどせり、村の土人、歳首禮(さいしゅれい:年頭の礼)を長者の家になす、その中にささらをすりて唄ふもの数人あり、いかなる者ぞと上人のたずねられしに、鳥追いといふものなりとぞ、けだし鳥追いは長者の田園の鳥を追ふばかりの勤にて、妻子を養ふものども、長者の諺を歌にうたひ、年の始めにコトブキをのぶるなり」とあり、南北朝時代には田畑の鳥を追った下男が存在していたことが判る。
しかし、江戸時代に入ってからは、一種の遊芸人の名称となり、しかも主として女性であった。『守貞漫稿』に「いまは京阪にこれなく、江戸に多くこれあり女太夫といふ、毎歳正月元旦より大略中旬にいたるのあいだ、女太夫新服をちゃくし、編笠をかむり、また常の歌および浄瑠璃とことなる節を唄ひ、三味線をとくに繁絃してきたる」とある。
粋な山形の編笠をかむり、縞の松坂木綿の着物をまとい、三味線を小脇に抱え、すっきりとした艶かしい容姿は、多くの浮気男を悩殺したであろう。